【二〇一五年 杏】
あれは、私が十六歳の時のこと。
また話はそこへ戻る。
あの朝、私は校門の前で佇むあなたを見た。そこからすべてが始まった。
月ヶ瀬(つきがせ)修司(しゅうじ)に出会ったのは、十年前の春のこと。修司は転校生だった。
あの時、校門の前にいた彼が、まさか今日から私のクラスメイトになるなんて思いもしなかった。
高校に進学してから、まだ一か月。
クラスにはまだ馴染めていない子もいる。そんな中、さらに転校生が加わるというのだから、教室は騒然としていた。ガラガラと教室の扉が開き、先生に連れられて修司が入ってくる。
その瞬間、私は息をのんだ。あの人だ。
黒髪を少し無造作に流した端正な顔立ち。
凛とした佇まいと、どこか物憂げな雰囲気。私は瞬きするのも忘れ、彼を見つめる。
その視線に気づいたのか、修司がこちらに視線を向けた。
――目が合う。
トクン……鼓動が跳ねる。
彼がふっと笑う。
私は恥ずかしくて急いで視線を逸らした。ドクンドクン……。
まだ私の心臓は激しい音を奏でていた。
転校生の登場に、クラスはさらにざわめき出す。
自己紹介を済ませた修司は、空いていた席に腰を下ろした。こうして、修司はクラスの一員となった。
授業が終わると、すぐに修司のまわりには人が集まった。「どこから来たの?」
「趣味は?」
「部活は入るの?」
転校生への通過儀礼というか、恒例行事というか。
いつの時代も、転校生というものは質問攻めにされるものだ。私は、その輪の外から彼を眺めていた。
本当は私も話しかけたかった。でも、そんな勇気もなく……。
彼の姿を見ているだけでも、こんなに胸がざわめくのに。
話しかけるなんて。
まあ、外見もイケてるし、人当たりもいい。
笑顔が素敵だし……モテるんだろうなあ。結局、私は話しかけることができず、ただ遠くから見つめることしかできなかった。
しかし、そんな私にも幸運の女神が微笑んだ。
放課後。
いつものように、一人で帰り道を歩いていた。今日の夕飯は何にしようかな、なんて考えながら。
「ねえ、一緒に帰ろう」
突然、背後から声をかけられ、振り返る。
そこにいたのは——月ヶ瀬修司。
にっこりと微笑む修司を目の前に、私は呆然と立ち尽くした。
え、なんで? だって、私は彼と話したこともないのに。動揺し、焦りまくる私に、修司は優しく問いかけた。
「ダメ?」
私は、咄嗟に口を開いた。
「え、あ……う、うん……いいよ」
速攻で返事した。
だって、嬉しかった。ずっと話してみたいと思っていたから。
「今朝、ここで会ったよね?」
その言葉に、私は驚いて修司を見つめる。
やっぱり気づいていてくれたんだ。
今朝のホームルームで、私に笑いかけてくれたのは幻じゃなかった。私の表情を肯定と受け取ったのか、修司は嬉しそうにコロコロと笑った。
「そっか、やっぱりね。
ずっと気になってたんだ。すごく可愛い子だなって」ドクンッ。
心臓が大きく跳ねる。
え、なに? この人、いきなり何言ってるの?
私、今ナンパされてる?
それとも、この人って実はめちゃくちゃチャラい、とか?疑うように目を細めると、修司は慌てた様子で顔の前で手を振った。
「ちがうよ! ナンパとかじゃない。
本当に、可愛いって思ったんだ。嘘じゃない」まっすぐな瞳で見つめられる。
その瞳は澄んでいて、軽い気持ちでこんなことを言うようには見えなかった。それに、私はもう彼のことが……。
「これからよろしくね。……えーと」
修司は手を差し出しながら、言葉を濁す。
ああ、そっか。
そういえば、まだ自己紹介してなかった。「私、佐原杏。よろしく」
私は差し出された手を、そっと握り返した。
それから、私たちはいつも一緒にいるようになった。
帰り道も途中まで同じだから、毎日並んで帰る。
朝は二人の共通の十字路で待ち合わせして一緒に登校。 休み時間も常に一緒で、お昼も当然のように並んで食べた。校内では、すでに「二人は付き合っている」という噂が立つほど、私たちは仲が良かった。
でも、本当のところ、まだ付き合ってはいない。私自身、たまに「どうなのかな?」と思うことはあったけれど、彼の気持ちがわからなくて、告白する勇気が出なかった。
そして、季節は流れ、初夏の七月初旬。夏が本格的に始まりかけた頃、制服もいつの間にか長袖から半袖へと変わっていた。
そんなある日の帰り道。いつもの明るい修司が、今日はなぜか静かだった。
時折、寂しそうな顔をしたり、小さくため息をついたりしている。彼がこんなふうに沈んでいるのは、とても珍しい。
「どうしたの? 今日は元気ないね」
私がそう問いかけると、修司は頷きながら俯いた。
「うーん、ちょっと家族のことでね」
気まずそうに目を逸らす。
あまり話したくないことなのかもしれない。「もし話したくなったら言ってね。悩みくらいなら聞くよ。
あんまりいいアドバイスとかはできないけど」笑いかけると、修司は少し考え込むように視線を落とした。
「悩みなんて、格好悪いだろ?」
「そんなことない! それに、修司の役に立てるなら嬉しいよ。
悩みがあるなら聞く。話すと、楽になることもあると思うし」私はまっすぐに想いを込めて、修司を見つめた。
すると、彼はふっと頬を緩め、優しい顔つきになった。「そっか、そうだね。……ありがとう、杏」
ニコッと笑った彼の顔が可愛くて、胸がときめいた。
こうして、私たちは静かに話せる場所を求め、公園へと足を向けた。【二〇二五年 杏】 視線を落としたまま、修司がぽつりと呟いた。「あの……さ。ごめんな、兄さんが」 その低く沈んだ声に、私はそっと小さく首を振った。「ううん。修司が謝ることじゃない」 そう、あれは私が選んだこと。「違う! そうじゃない! 全部、俺たち家族が悪いんだ。 杏を……ずっと、苦しめて」 修司は震えていた。 その様子に、ふと気づいてしまう。 まさか。「杏……」 その真剣な眼差しが、まっすぐに私へ向けられ。 時が、止まったような気がした。 彼はゆっくりと立ち上がり、私の正面へと回り込む。 そして。 そのまま、静かに膝をつき、頭を下げた。「ごめん! 本当にごめん! 杏を苦しめて。杏の家族を……兄さんと父さんが、あんな酷いことを……! 俺は、何も知らなくてっ。本当に、ごめん!」 額を地面につけ、何度も繰り返される謝罪の言葉。 その姿を、私はただ見つめていた。 ――修司。 とうとう知ったんだね……真実を。 心が揺れ、痛いほど胸が詰まる。 私はゆっくりと膝をつき、修司の肩にそっと手を置いた。「修司、顔を上げて。あなたが謝ることじゃない」「でも、俺……っ! 今まで何も知らなくて! 杏のこと、いっぱい、苦しめた……!」 顔を上げた修司の目には、涙が浮かんでいた。 悔しさ、悲しさ、そして怒り……いろんな感情が滲んだその顔が。 なんでかな。不思議と愛おしかった。「いいの……立って」 私は彼の手をそっと握り、そのまま静かに
【二〇二五年 杏】 夜の暗い海が見渡せる遊歩道に、修司と二人でやってきた。 沿道の街灯がぽつぽつと灯り、辺りを優しく照らしている。 遠くで聞こえる波の音。 少しひんやりとした風が通り過ぎ、私の髪を揺らしていった。 ちょうどベンチが見えたところで、修司がそっと私に腰かけるよう促した。「ここで待ってて」 そう言って、修司は少し離れた場所にある自動販売機へと走って行った。 戻ってきた彼の手には、二本の缶。「……ありがとう」 手渡されたのは、ホットコーヒーとホットココア。 私は迷わず、ココアを選んだ。「ふふっ」 なぜか修司が楽しそうに笑った。 怪訝そうに見つめると、彼は首を横に振って微笑む。「ううん、杏だなあって思って」 照れくさそうに笑いながら、私の隣に腰を下ろす。「寒くない?」「うん……大丈夫」 そう言ったけれど、夜風が思ったより冷たくて、肩がすくむ。 その瞬間、ふわりと修司の上着が肩にかけられた。「どうぞ」 その優しい声と眼差しに、胸がいっぱいになる。 上着からふんわり漂う彼の匂いに、頭がぼうっとしてしまう。 そのとき、先ほど感じた恐怖がふと脳裏をかすめた。 雅也のあの顔――その声、その狂気。 胸がぎゅっと締めつけられ、心の奥がひやりと凍りつく。 でも……。 私をあの場から救ってくれた修司の姿が、すぐに心の中を満たしていく。 彼の声、温もり、優しく支えてくれた腕。その一つ一つが、冷えた心に少しずつ染み込んでいくようだった。 隣にいる修司を見上げると、彼もちょうど私の方を見ていた。「……何?」 修司が不思議そうに訊ねてくる。「ううん、上着、ありがとう。修司は相変わらず優しいね」 その言葉に、修司は急にあたふたと手を振り、顔を赤らめた。「な、何言っ
【二〇二五年 杏】「おら、もっと嫌がれよ。でないと興奮しねえよ」 そのいやらしい笑みと視線。 私のことなど、自分を楽しませる道具としか思っていない。 本当に……こいつは。「くそっ、離せ……っ、やめろ!」「そうそう、そうこなくっちゃ」 そのときだった。 ピンポーン。 部屋のチャイムが鳴る。 間の抜けたような乾いた音が、静かな空間に響いた。 雅也は無視して続けようとする。 が、再びチャイムが鳴る。 何度も、何度も。「っうるせぇな! 誰だよ!」 苛立ちを露わにした雅也は、すぐそばに置いてあった鞄を探り、ロープを取り出した。 私は手首を縛られ、ベッドの脚に繋がれる。 口はハンカチで塞がれた。 涙目で見つめると、雅也がぎろりと睨みつけてきた。「騒ぐなよ」 そのままドアのほうへ向かって歩いていく。 しばしの間のあと、ドアが開く音。 続いて、聞き慣れた声が響いた。「杏っ!」 その声に、全身が震える。 足音がこちらに駆けてきて、その姿を現す。 修司だ。 血相を変え、荒れた息を吐きながら、一直線に私の元へ駆け寄ってくる。「杏、大丈夫か!」 修司は私の姿に痛々しそうに眉を寄せる。 そして無言のまま、すぐさま縄を解き、そっと布を外した。 呆然と、彼の顔を見つめる。「……どうして」 修司の目が私をまっすぐに捉える。「おい、修司っ! おまえ……っ」 彼の背後から、雅也が怒鳴りつける。 修司は振り返ることなく、きっぱりと言い放った。「兄さん、杏は連れて行く。……いいね?」 その顔には、見たこともないほどの静かな怒りが浮かんでいた。「っ、くそ……」 雅也は歯を食いしばり、何も言い返せず立ち尽く
【二〇二五年 杏】「おまえに何がわかる! 父さんが、私たちがいったい何をしたーっ!」 怒りに突き動かされるまま、私は雅也に飛びかかった。 そのままベッドへ押し倒し、馬乗りになって首へ手を伸ばす。「ははっ、それがおまえのしたかったことか? 本当にバカだな」 雅也は笑った。 嘲るような声。 まるで私の感情そのものを玩具にしているかのように。「おまえの親父も、おまえも、みーんなバカ。 俺に勝てるわけないだろ」 そう言った次の瞬間、雅也が勢いよく体を起こし、今度は私をベッドに押し倒した。「やめて! 何するの!」 必死に抵抗するけれど、彼の力は強くて、びくともしない。「さて、どうなると思う? 馬鹿なおまえでもわかるんじゃないか?」 顔を歪めてにやつく雅也の目が、いやらしく私の身体を這う。 ――怖い。 初めて、本当の意味で恐怖を感じた。 今更ながら、自分の行動を悔やむ。 なんで、私はこいつの誘いに乗ってしまったのだろう。 こんな男と、密室で、二人きり……。「こんなことして、今度こそ訴えてやる!」 震える声で叫ぶ。 それだけが、今の私にできる精一杯だった。「ははっ、まだそんなこと言えるのか。いいねえ、俺好みだよ」 雅也の表情が、これまでにないほどの恍惚に染まり、静かに歪んだ。「ほんと、おしいよなあ……おまえ。 ま、いいや、最後に楽しませてもらうわ」 覆いかぶさってくる雅也。「やめて! こんなことして、ただで済むと思ってるの!? 今度こそ、おまえを――」「やってみろよ。できるもんならな」 顔を近づけてくる雅也の目が、嘲りと支配に満ちていた。「おまえの父親と一緒だよ。 どんなに抗っても、俺と親父の前じゃ誰も敵わない。 皆、俺たちの思い通り。……それに、訴えられると思ってるの?」
【二〇二五年 杏】 息がかかるほどの距離に、身体が強ばる。 その顔も、吐息でさえ、嫌でたまらない。 私のすべてが、彼の存在を拒絶していた。「正直、気に入ってたんだよ。君のこと。 見た目も、雰囲気も、俺の好みでさ」 雅也は笑った。 けれど……その目は冷たく濁っていた。「ねえ」 突然、ぐっと距離を縮めてきた。 私は思わずのけぞる。 すぐそこにある顔。その唇。 雅也は、そのままふっと微笑んだ。「本当にもったいないよな。君がこんな女じゃなければ、ずっと可愛がってあげたのに」 その瞬間、雅也の笑みが、狂気を含んだものへと変わった。「でもさ――俺を騙そうとしたことは許せない」 その声は、底を這うような、恐ろしいものだった。 背筋がぞくりとし、寒気がする。「おまえ、何様のつもりだ? 俺を振って、復讐? はははっ、馬鹿じゃないの。 おまえごときに、俺が傷つくとでも思ってたのか」 顔を歪めて笑う雅也に、私は全身が粟立つのを感じた。 こいつ、狂ってる。「おまえは所詮、あいつの娘だな」 低く冷たい声音。 その「あいつ」が、誰のことを指しているのか、わかっていた。「……父のことを、あいつなんて呼ばないで」 怒りを抑えきれずに睨みつけると、雅也は目を見開き、やがて楽しそうに口角を上げた。「へえ。まだそんな余裕あるんだ? さすがだよ、ほんと」 次の瞬間、その笑みがすっと消え、視線が鋭くなる。 尖った刃のような声が、私を貫いた。「でもな、調子に乗るな。おまえなんて、俺の前じゃ何もできない。 おまえの父親みたいにな」「うるさい!! 父さんを侮辱するな! おまえのせいで……父さんは、私たちは――どれだけ苦しんだと思っている! 私は、絶対におまえも、おまえの父親も許さない!」
【二〇二五年 杏】 あの夜――あの冷たい雨に打たれて帰ってから、数日が過ぎた。 そして、私は雅也からデートに誘われた。 本当は、会いたくなんてなかった。 でも、あのとき途中で帰ってしまったことが、ずっと引っかかっていた。 電話で一応謝罪はしたけれど、それだけじゃ足りない気がしていた。 ちゃんともう一度顔を合わせ、ご機嫌を取っておいたほうがいい。 そう思って、私は誘いを受けた。 指定された店に着いたのは、午後七時。 これまで二人で飲んだのは、出会ったあのバーだけ。 でも、今日の店は初めての場所だった。 店の扉を押すと、控えめなドアベルの音が響いた。 落ち着いた照明と深い色のインテリアが目に入る。 初めて見る空間に、緊張が走る。 味方がいないこの場所で、雅也と二人きり。 自然と呼吸が浅くなるのを感じた。 気を張っていないと。 もう、あの時のように伊藤くんがそばにいるわけじゃないのだから。 中にはすでに雅也の姿があった。 私を見ると、上機嫌な様子で手を振ってくる。 テーブルの上には、いくつか飲み終えたグラスが並んでいた。 もうだいぶ飲んでる。 ……酔ってる? これはある意味、好都合かもしれない。 前回のこともあまり詮索されずに済む。 そんなふうに、油断していた。 あのとき、すでに罠は仕掛けられていたのだと、この時の私はまだ知らなかった。 軽く付き合って、早めに帰るつもりだった。 けれど、飲み始めてすぐ、強烈な睡魔が襲ってくる。 気づけば、深い眠りに落ちていた――。 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。「……ここ、は……?」 ぼやけた視界の中、なんとか体を起こそうとする。 その時、すぐ傍から声がした。「おや、目が覚めたかい?」 その声に顔を向けると、雅也が立っていた。 背広は脱がれ、ネクタイも外され、シャツの上のボタンがいくつか開いている。 ゆっくりと、大げさにため息をつきながら彼は言った。「君には本当に驚かされたよ。まさか、あの男の娘だったなんてね」 その瞬間、眠気が一気に吹き飛ぶ。 目を見開いた私を、雅也はくくっと笑いながら見下ろした。「もう少しで騙されるところだった。演技、なかなか上手かったよ?」 そう言って、彼はベッドの端に腰を下ろすと、ゆっ